肥田式入門【3】―瞳光の不睨―

今回のテーマは、「瞳光の不睨」です。
瞳光の不睨も集約拳同様、春充先生の処女作『実験簡易強健術』で紹介して以来、『聖中心道肥田式強健術』まで一貫して使用されています。

肥田式の根幹をなす気合について、春充先生は、「気合=丹田(正中心)に力を込めること」とし、それは肉体的要素(腹筋の急激かつ極度の緊張)と精神的要素(恬淡虚無、精神の平静)から成り立っている、という趣旨のことを述べています。

この精神的要素を実現するのに必要なことが、この瞳光の不睨なのです。人間が受ける外界からの刺激の八割以上が視覚=眼から入る刺激とのことです。精神の平静を実現するため、瞳光の不睨を使って目から入る刺激に心が揺れ動きにくくするのです。

では、目を閉じれば良いのでは?とおっしゃる方もいるかと思います。しかし、運動時に目を閉じるのは危険かつ現実的ではないと思いますし、眼をつぶらないと、気合を発揮できないようでは日常生活の役に立たないと思います。

坐禅をやったときに、お坊さんから、目を閉じると妄想がわきやすいし、眠くなるから、目は半眼にするように言われました。また、学生時代、剣道をかじっていましたが、目付けの重要性(部分を見つつ全体を見る)を言われました。出典は忘れましたが、気功か何かの本で眼から気が抜けて消耗してしまう、というようなことを読んだ記憶もあります。目の使役に関しては、先人たちはかなり苦労していたと思います。

瞳光の不睨の説明では、各著書を読み比べた結果、『川合式強健術』p.83-89のものが一番詳しいので、それを抜粋して紹介します。

▽瞳光の不睨は、心身関連の道――

基本姿勢は、自然体であって、静の極であり、運動姿勢は気合を込めて、最大の中心力を起す、動の極であるが、自然体の時にボンヤリしたり、気合を込めた時に固くなったりしてはならぬ。つまり静の時静を感ぜず、動の時動を感ぜぬ、様にしなくてはならぬ。即ち心理状態は、動静一致、虚無恬淡であらねばならぬ。

かういふと、甚だ抽象的の法則であって六(む)づかしさうであるが、これを具体的に実現して、其の目的を達するのに、極めて簡単な、一の手段方法がある。それは何であるかと云ふと、瞳光の不睨といふことである。

眼は由来最も敏捷な、精神の使者である。外来からの刺激は眼から這入って、直に精神を衝き、精神は又目といふ門を通って、忽(たちま)ち放散する。であるから精神の定まらない人、心に危惧不安の、念を抱いて居る人は、始終眼睫(まばたき)を早やくする。試みに反対の証拠を得たいと思はるるならば、少しく眼睫を早くして見るとすぐに分る。精神は忽ち不愉快となり、眩暈(めまい)がする心持になる。そればかりでは無く、眼は之を開けば色相に妨げられ、之を閉づれば、雑念妄慮起るといって、古来仏者も眼の使役には非常に苦心したものである。眼にして斯(かく)の如しとしたならば、之を其の裏よりいふと、眼を自由に使役し得るのは、反対に精神を自由に、支配するといふに庶幾(ちか)い*1のである。

……(中略)……

私の運動法を練修するに当り、『瞳光の不睨』といふ一事を、条件に入れたのは此の故である。瞳光の不睨といふと、両眼を見開いて、瞳孔を拡大し、視線を定めるのである。視線を定めると云っても、一定の箇所を見詰めたり、睨みつけたりするのではない。

視線は水平より稍々(やや)高い処に措(お)いて、起(た)たうが、坐らうが、其の度を変へない。そしてよし好個の目標物が、其処にあらふとも、決してそれを見詰めないで、其の先の先に宇宙の広きを眺め、無限大の空間に、視線を放つのである。分り易くいふと、視線を虚空に浮かべて、視界視野を広くするのである。此の時の眼をただ『見開く』といって置く。恐れず。誇らず。考へず。眼は青く涼しくって、赤子のそれの様でなくてはならぬ。眼が光る様ではいけない。ビスマーク*2や、ナポレオンの様に眼光、人の肺腑を突き徹す様なのも可(い)いが、瞳光の不睨と云ふのは、クリスト*3や釈迦や、もしくは、ワシントンやリンコルン*4の様な穏かな、而かも、確りしたものでありたい。であるから、いくら不睨をつづけても、疲れない。鋭く冷たくならない。云ひかへて見れば、力んではいけないのである。ただ目瞬を少なくして、飽くまでも無邪気となるのである。かうすれば、精気自(おのずか)ら下腹丹田に潜み、邪念去り妄想起らず、魂までも澄み渡る。空々乎(くうくうこ)として吾在るが如く、無きが如く、果ては運動そのものをも、超越して仕舞ふ。只空虚である。ただ充実である。禅の妙諦*5も、芸術の神聖も、かかる折にこそ味ふことが出来るのである。

これで思ひ出すのは、世界の名女優、レナ、アッシュエル*6が、トルストイのレサレクション*7カチューシャ*8を演じ、激烈に、表情を四変した一幕である。燃え立つ様な、怒りと、悲(かなしみ)と、嘲(あざけり)の情から、一転して、平和無邪気の心となり、少し仰向いて空を見つめたまま、アブストラクト*9になる。恰(あた)かも、天女の立像のやうであったと云ふ。私が説かむとする瞳光の不睨の要領は其れに外(ほか)ならぬ。

純真である。静穏である。先づ首を伏せたままポーと、ボンヤリ起立する。そして腰を据へ、呼吸を調へて、腹にウンと力を込め、首をグイッとあげて正面に向ふと共に、キット眼光を放って視線を一定する。そして徐(おもむ)ろに腹の力を抜いて自然体に帰るのである。瞳光の不睨は、運動を終るまで、崩さずしてズッと続けるのである。或る有名な武術家は、苦心惨憺の末、心気を取り鎮めるの秘訣は、『グット気を呑み込むにあり』と、悟ったさうであるが、私はどうしたら、最もよく、『グッと気を呑み込む』ことが出来るかと考へた。そしてそれは、頸部筋肉に力を込めグッと首を上げながら、腹に力を入れるのが、一番であることを了得したのである。即ち所謂(いわゆる)『瞳光の不睨』である。瞳光の不睨は、心気を静める方法としても、最も簡易に、最も確実なものである。

私の経験として、広い場所でやる時などは、両眼から電光の如く、わが精力の迸射*10するのを感ずるのであって、此時に於ては、一切是非善悪の念もなく、万事を抛(放)擲して、天空海濶*11新風光*12に、接するの思ひがするのである。かかる時、私は学理の応用を以て、説明するの道を知らぬ。只斯くして新活力は滾々(こんこん)として、湧き溢れて留まる処なく、乾坤一擲の元気は、体躯の中に、充ち満るを自覚するのである。此の一事、私の練修法に、別様の活気と、趣味とを添ふるもの、『中心力』と相俟(あいま)って、最大特徴の一となし、十分熱心に練磨せられんことを、切に希望する。

瞳光の不睨は、精神的に、中心力を磨くの道であって、而かも、中心力に入るの第一門、眼光涼しく、澄み渡る時、心身は、丹田に於て、一致冥合*13する。

『自然体』と『気合』との間を通じて、一貫するのは、瞳光の不睨であって、視線は空間に浮かべるのであるから、姿勢はどういふ様に転換しても、瞳光の不睨に差支(さしつかえ)はない。私の拙劣な説明が、諸君の了解を、却て錯雑せしめは、せぬかと恐るるものであるが、要するに『無心に眼を見開いて、目瞬を少なくし、視線を一定の箇所に注ぐ。されど凝視せず』。

 

 

≪脚注≫

*1:普通は「こいねがい」と読むが、他に「目標に非常に近づくこと」の意味もあることから「ちかい」と読む例もある。

*2:ビスマルク(Otto von Bismarck)1815-1898。ドイツ統一の立役者で、「鉄血宰相」の異名をとる。

*3:イエス・キリストのこと。

*4:エイブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln)1809-1865。米国第16代大統領。

*5:みょうたい、みょうてい。すぐれた真理。

*6:レーナ・アシュエル(Lena Ashwell)。1872-1957。英国の女優。彼女の演技(特に表情)に感動した島村抱月が大正3年(1914)に舞台化した(芸術座)。松井須磨子がカチューシャを演じ、大好評を博した。

*7:トルストイの作品で、日本名は『復活』。日本でも舞台化や映画化がなされた。

*8:『復活』のヒロイン。身分が低い女性で、主人公(貴族)に弄ばれて捨てられた後、数奇な運命を辿る。

*9:abstract。抽象等の意味から、ある特定の例に関係のない考えまたは概念(a concept or idea not associated with any specific instance)のニュアンスを持つ。ここでは、何事にも捉われない心=無心、無邪気な心を表すと思われる。

*10:勢いよくほとばしる(迸る)様。

*11:てんくうかいかつ。空がからりとして晴れ、海が広々としていることから、心が広々として度量が大きく、何のわだかまりもないこと。

*12:風光(景色、風景の趣)に「新」が付いたこと及び前後関係から、「新境地」的な意味と思われる。

*13:みょうごう。知らず知らずのうちに、1つに合すること。

 


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